大震災と防災を考える

今、横須賀市の追浜東町に住んでいますが、ここは海岸も近いので、「首都圏大震災 」とその「防災」について考えてみました。以前とは異なり、私達には7年前の経験と知見があります。共通した具体的なイメージはできるのではと思います。

1. 東日本大震災の体験を振り返る
2011年3月11日の東日本大震災から丸7年も過ぎました。
今でもYouTubeで東日本大震災で検索すると当時の様子が動画でみることができます。津波により町が一気に崩壊するのは、今でも恐ろしく感じます。
詳細な文書としては、消防庁が平成25年3月に発行した「東日本大震災記録集」があります。その中の写真集の一部を章末に転載します。

その日午後5時頃に、私は京浜急行に乗ろうとして、品川駅前にいました。しかし、千人ほどの人が待っていた目の前で、本日電車運行なしと告げられ、駅のシャッターを閉められたのには呆然といました。集まっていた人たちは一斉に落胆の叫びをあげましたが、石を投げることもなく、その場から去って行きました。
でも、どうしよう?(当時、住んでいた横浜市の) 金沢文庫まで帰れない!冬物のコートを着ていてもその日はとても寒かったから、公園のベンチで夜を明かすことなどはありえない。すでに近くのホテルのロビーは入場禁止になっていた。また、後で知ったが、公民館が開放されたのは真夜中の0時頃になってからだった。(確か、現在は愛知県知事である大村氏の計らいであったと思う。)以前に何回か行ったことのある24時間営業の川崎のサウナなら冷えた身体も温められる。大変だが、品川から行けない距離ではない。30分かかってそう決心し、帰宅のために歩いている人々の群れに加わりました。
そこそこの早足です。私は当時、腰痛のため杖を使っていたので、彼ら健常者と同じペースで進むのは厄介でしたが、頑張りました。夕食もまだでしたが、途中のコンビニはどこも長い行列なのでずっとパスして歩きました。

不思議なことに、ぶつくさ文句を言って歩くのは50代にみえる人などわずかで、むしろ、貴重な体験だねと言い合いながら歩く若い人たちの落ち着きが印象的でした。
大森に近づくまでは車道はどこも車でひしめき、渋滞というより駐車場のようであった。人の列は歩道からはみ出ることもほとんどなく、障害物がない限りは車道に出ることはなかったので、一緒に歩きながらも歩行者の素行の良さには、驚嘆していました。
(後日のニュースにて、帰宅歩行者が車渋滞の一因だと平然と言う専門家がいました。公共放送であるのに、本当にいい加減な発言をする者がいるのだと驚きました。)

午後9時頃に大森まで来たので、歩き続ける帰宅者の列から離れて、うどん店の暖かいうどんで人心地をつけました。大変疲れていたので、大森ならと何軒か宿を訪ねましたが、どこも満室でした。ラブホテルでも満室と言われ、出ようとした時、20分したら一部屋空くよと声をかけられました!!きっと、疲れた顔と杖をみて不憫に思ったのでしょう。川崎まで歩かずに済むのでありがたく待ちました。そして、入室の際には、カップラーメンを3つも頂きました。嬉しくて全部食べました。重ねて多謝です。
iPhoneを持っていましたが、品川駅で電池残量が20%未満になってしまい、必要な時にはグーグル地図で現在位置と方角を確認できるよう、電源を切っていました。そうして何回か使い、ラブホテルに入室した際には5%をきっていました。なのでどんな経過になっているか、歩いている最中は何も分からなかったのです。
午後10時頃に入室した部屋でTVをつけて愕然としました。岩手県の気仙沼が火の海でした。東北地方沿岸が津波にやられたのを初めて知ったのです。

3月12日の昼には、各停で途中不定期に止まりながらも電車が動いていました。大森から川崎までJR、川崎から金沢文庫までは京浜急行に乗れました。午後3時には帰宅できました。やっとiPhoneの充電ができるよと安堵の気持ちでした。スーパーやコンビニなど食料品の棚に何もなかったのも驚きでした。

近くのスーパーのパンコーナー

数日経って多少落ち着き、出社してからも驚きでした。福島県の原発が爆発で屋根が次々と吹き飛んでも、NHKに出演した東大の原子力専門家が、原発の格納容器は大丈夫だと、うそを言い続けたことです。YouTubeで放映された爆発時のキノコ雲や空間放射線の突き抜けた観測値をみても、とても信用ならないと思ったものです。その後も莫大な放射線を撒き散らし続けた世界最大の原発事故への初期報道がこれでした。
あまり知られていませんが、日本の気象観測データは世界に配信されています。先進各国は、爆発後はそのデータを利用してシュミレーションを行い、放射能の流れを予測していました。日本でも当然同様のシュミレーションをしていましたが、国民には報道されていません。当初から予測が知られていれば、避難時にむざむざ放射線量の高い地区へ人々が移動しなかった可能性があります。
私など一部の者は、インターネットで、ドイツなどから発表される実績と予測動画を毎日見て、首都圏方面に放射線量の高い風や雲が来るかどうか確認してきました。
また、首都圏各地にも空間放射線量を測定する場所があり、そのリアルタイムデータもチェックしていました。実際とんでもなく跳ね上がっていたのです。
それでも、2回目の爆発の後、傘を忘れたために放射線量の高い雨を浴びてしまう失態をしてしまいました。
NHKは長年気象放送をしていますから、当然この種の情報は圧倒的に詳しいし、隠すことなく率先して汚染情報や予測を知らせるのがおよそ報道の義務というものです。百歩譲って、日本での放射能の拡散について、よその国ではこういう報道や予測がされているのでもいいのです。
しかし、現在に至るまで、以上のことには口をつぐんだままです。国民の安全のためにできることやすべきことをやらなかった、今もってその反省もない姿勢は、情報を抑制しごまかすロシアや中国と何ら変わりはなく、民主国家としての機能や役割をNHKは果さないという実績を作ったといえるでしょう。

東日本大震災記録集 平成25年3月 写真集より

2. 防災は、生き抜くための準備
さて、東日本大震災では首都圏の人々もいろいろ大変でしたが、もちろん、被害の主役ではありませんでした。今度私たちがその主役となった際には、大きな震度と津波が加わります。そのとき建造物などの被害ばかりか多くの死と直面し、復旧までの一定期間は自分たちが生き延びるための闘いを強いられます。
自然災害は事前に防ぐことはできないから、「防災」は、災害発生時に多くの人が死ぬのを出来るだけ防ぎ、災害後に人が死ぬことも出来るだけ防止する事が主眼となります。「防死v.s.災害」です。
これが建造物の保全を主眼とする、消して防ぐという「消防」とは異なる点です。そして、死と向き合う大規模災害に対応できない「防災」があるなら、それは防災の名をかたる似て非なるものといえます。

3. 震災で起きる事
では、実際に首都圏の大震災が起きたら、私たちの周り、横須賀市の追浜東町や浦郷町などではどうなるのかを、想像してみましょう。いつものことですが、それは突然やってきます。(こういう予兆があったと後から話しが出るのでしょう。)
震度は6強から7です。木造の家が倒れ、崖崩れが起こります。液状化も起きるでしょう。

大正初期の海岸線をみると、追浜東町商店街へ入る辺りはすぐ側まで砂浜が広がっていました。そこから日産へ向かう夏島貝塚通りの道は、昔の海岸線に大体沿っています。追浜本町、追浜高校、追浜中学校、追浜公園、夏島町は海でした。

地震の揺れが収まり、とりあえず怪我がなかったとして、今あなたがどこにいるかが問題です。まもなく津波がやってきます。平成27年の神奈川県津波浸水予測によると、金沢地区への最大津波高さ/最大波到達時間は、相模トラフ海溝型で3.9m/29分または3.2m/98分、元禄関東タイプで3.0m/31分、慶長型地震は4.3m/74分としています。追浜地区は金沢地区と同じとみていいでしょう。
ちなみに、三浦海岸などの「横須賀(東京湾)」の最大津波高さ/最大波到達時間は、おおむね9m/13分です。金沢地区も地震から15分後には近くの海面が上昇開始することになります。

神奈川県 津波浸水予測について 平成27年2月

以下に、県による浸水エリア予測図の一部(相模トラフ海溝型)を示します。予測図には勿論、慶長型もありますが、追浜地区を3.9mとしつつも1.9mや2.9mの浸水域で描いており、混乱しているようで参考になりません。相模トラフ海溝型では追浜地区は3.6mの浸水として描いています。そのため、追浜消防署(標高3.8m)、L-ウィング(標高4m)、追浜東町商店街の今野葬儀社(標高4.1m)などは浸水域には入らないのですが、慶長型地震(4.3m)では、恐らくこれらも浸水域になるでしょう。
追浜東町通りの、ルネ追浜とパークハウス追浜へ行く交差点は標高5.5mです。津波は勢いがあるので、最大津波高さ4.3mのケースではここまで水が遡上してきてもまったく不思議ではありません。
浦郷小学校の校庭は標高が約10mです。
京急ストア/スパーク浦郷店に行く際に通る、浦郷の筒井隧道の標高は12m以上です。その筒井隧道を海側に下った信号のある交差点は、標高が3.4mです。

これらから、追浜駅も含めた夏島貝塚通りの商店街エリアが海に変わり、浦郷小学校グラウンドの下やルネ追浜の近くまで海面が押し寄せる事態が見えてきます。景色は一変します。

(注)文中で示した各所の標高は、国土地理院地図 (URL: http://maps.gsi.go.jp ) を参照して得ています。
また、国土地理院の地図では、カスタム標高マップを作ることができます。標高4mと5mで色分けした地図を以下に示します。参考にしてみて下さい。

4. 津波から逃れる - どこに避難するか?
地震後、恐らく15分後には海面の上昇が始まります。道路が浸水する前に高所へ避難することが肝心です。標高によっては家の下敷きになった人を救う時間は全くありません。また、充分な事前準備がない限り、寝たきりの人を運ぶことも時間がかかります。結果、見捨てる苦渋の決断も必要になります。
過去には砂浜や海上だったエリアにある、白鳩幼稚園、追浜中学校、追浜高校、北図書館、追浜行政センター、北体育館などにいる人は、すぐに外に出て高い場所まで歩いていきましょう。とりあえず、浦郷三丁目公園です。日産追浜西ドミトリーの周りの道を使います。

日産追浜西ドミトリーの裏手は標高10m以上になります。浦郷三丁目公園まで来ると標高30m以上になります。追浜高校正門から日産追浜西ドミトリーの裏手までは歩きで約12分です。

5. 津波が収まった後、どうなるか?
津波の第2波、第3波が過ぎて、平常時の高さの海に戻った時、どうなっているでしょうか?東日本大震災の岩手や宮城などと同じ光景だとすると、波が引いた後の道路は至る所でがれきと壊れた車で埋まります。家々は取り壊したばかりのような風景があたり一面に広がります。電柱も倒れ、何箇所かで火災が発生しています。横浜の磯子や千葉では石油タンクが燃えて高く黒煙が登ってします。もちろん、電気、ガス、水道、電話、TVは全てストップです。おそらくインターネットもしばらくはつながらないでしょう。
神戸震災の時はこれらの復旧や物資の到達に一週間を要しました。今回は範囲が広く首都圏全体であるので、主要道路が使えるようになるまで二週間かかるとすれば、資材、人材の運搬はそれからとなり、復旧開始もそれからです。すなわち、水、食料に窮する「難民キャンプ」状態が1ヶ月近く続くことが予想されます。その間は自衛隊や外国軍隊のヘリによる物資投下、病人搬送が主となるでしょう。
消防は機能しないので、出火したら自然鎮火を待つだけです。近くの病院も機能しないので、搬送が遅れれば人工透析が必要な方はアウトです。救急車も動けない。水洗トイレも機能しません。それから、安否確認、連絡センターを開設する必要があります。しかし、従来の行政機関は少なくとも一週間は混乱するでしょう。
倒壊や津波によって家に住めない着の身着のままの人々で公園などはあふれています。毛布などもしばらくはヘリ投下位しか手段はないでしょう。しかし、ヘリが救援物資を持って、いつ来れるのかはわかりません。必要なものが必要な時に届くことはあり得ず、少ない物資をめぐって混乱や騒動が続く恐れがあります。

果たして助かった人々は復旧するまで全員が生き延びられるでしょうか?
事前の防災訓練や対策が首都圏大震災を想定したものであれば、その可能性は高まります。

6. 震災、津波に対応した防災対策
私たちの近隣で実際的な避難箇所は、主に浦郷小学校、パークハウス追浜、ルネ追浜の3つです。マンションは横須賀市の指定外ですが、おそらく町内会会館や小学校だけでは不足であり、災害時には当然我を棄てて互助しないといけない。また、他の指定の避難所は海に浸かり利用不可の可能性が高いでしょう。
自然に集まってくる避難者はバラつくので適切に3箇所に再配分して、充足度を平均化する事が必要になります。そしで以下の諸点への対応が迫られます。

- 雨露風を凌ぐ ← 共用施設利用、住居の共同利用、使える設備の点検利用
- 水の確保、仮設トイレ設置 ← 事前準備がなされていないとできない
- 追浜東町と浦郷町内会による地域全体の緊急防災司令所の設置
- 連絡網と連絡手段の確認、生存者の確認、負傷者、病人のランク付け
- 血清など薬品や医療器具を使えるようにする
- 必要物資の自治体への連絡、配分
- 道を作る - 道のがれき撤去作業
- 治安と出火対策
- 放射線量測定 ← 原子力施設の事故広報はないので、空間放射線量を測定。異常値の場合は室内に避難待機する必要あり。

以上の事を適切にまた的確に実施できるには、事前準備が欠かせません。概略ですが、以下に示します。
1. 最低必要な品目、設備を準備する
2. 町内会などの地域団体の協力合意と段取り作り
3. 設備取扱い習熟と緊急対応訓練 (注1)
4. 事前のルート選択とその避難訓練及び移動ツール、(注2 特に幼稚園)

(注1)電気復旧の際は末端のショート事故などで火災が発生しやすい。マンションでこれを防ぐには、専有部、共用部とも電気室内の適切なブレーカを操作できないといけないが、その入室用キーを使えて、操作を熟知する複数の居住者がいないといけない。管理員が災害時でも使えると思うのは空想である。また、管理員は全ての設備について熟知していないから、前もって住民が自主的に調査し把握している事が事後の命に関わってくるといえる。

(注2)海岸や海を埋め立てした地区は、確かな証拠がない限り液状化や津波で建物が倒壊する危険がある。そのため、元々陸地の10m以上の高所へ移動するのが確実といえる。どの道を通り、どこに避難するかを決めて訓練をしておけば、災害時にもスムーズに移動できる。時間との勝負なので、特に幼稚園は訓練が必須と考える。

7. 震災と津波の想定と実際的な備え
以上をみてくると、私たちは、東日本大震災が首都圏で起きた場合の避難や災害後の処置について、地域として起こり得る事の把握やそれに対する準備が不充分であるように思われます。
現状のままでは、地震や津波で多くの人命を失い、以後の避難生活でも混乱の中で火災や病気、それに傷害事件による死傷者が多数発生する恐れがあります。
そろそろ、地域全体の具体的で実際的な行動計画を立ててよい時期に来ているように思いますが、いかがでしょうか?
(2018年4月15日 了)